| Oakland 16th Station |
ウェストオークランドの一画になかば廃墟となっているアール・デコ(Art Deco)様式の建物がある。かつて大陸横断鉄道の終着駅であった「オークランド16番街ステーション」(オークランド・セントラル・ステーション)である。
この場所・建物が鉄道駅として運営されていたのは、1912年~1971年のことで、この駅舎が2025年の春、歴史的建造物として指定され、その記念行事に、幸いにも参加することができた。
| Oakland 16th Station |
ウェストオークランドの一画になかば廃墟となっているアール・デコ(Art Deco)様式の建物がある。かつて大陸横断鉄道の終着駅であった「オークランド16番街ステーション」(オークランド・セントラル・ステーション)である。
この場所・建物が鉄道駅として運営されていたのは、1912年~1971年のことで、この駅舎が2025年の春、歴史的建造物として指定され、その記念行事に、幸いにも参加することができた。
| "Delta Life"の特集記事の一部 |
サクラメント・バレー、もう少し限定すれば、サクラメント・デルタには、ウォルナット・グローブやアイルトンなど、いくつか日本人移民の集落や痕跡が残されている。その中で、少し異色の人で、名を残した人がいたことを知った。それはちょうど、1年前のクリスマスのことだった。
訪れたサクラメント川沿いの小さな町アイルトンで、クリスマスの日にも関わらずオープンしていた喫茶店でもらった地域の情報誌「デルタ・ライフ」にその人の特集が掲載されていた。
牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日[文久4年1月6日] - 1926年[大正15年]3月27日)という人である。
この人は、アメリカに移民し、ストックトンの近くのジャガイモ農場で成功を収めた人である。「馬鈴薯王(ポテト・キング)」と呼ばれ、現地ではジョージ・シマの名で親しまれた。
ジャガイモの銘柄は「シマ・ファンシー(Shima Fancy)」であったが、おそらく今はもうない。サンフランシスコ大地震(1906年)の際には、大量のジャガイモを被災地に寄付したというエピソードも残っている。
1920年代の排日運動のあおりを受けて、経営は立ちいかなくなったが、その農場があった土地は、いまでも「シマ・トラクト」(Shima Tract|トラクトは、土地の区画を表す用語)と呼ばれ、地図にも載っている。
初の日系人百万長者として名をあげたが、晩年は日系人の権利を守るための運動を行った(1908-1925)。
調べていくうちに、この牛島謹爾さんは、私と同郷の福岡県久留米市の出身であることがわかった。
邸宅はバークレーのカレッジ・アベニュー沿いにあったそうだが、たぶんその痕跡はいまはもう残っていない。
また、サンホアキン・デルタ・カレッジには、「シマ」の名前のある建物があり、そこには、牛島謹爾さんについての資料が展示してあるそうだ(未訪問)。
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| ストックトンの博物館にあったパネルの一部 |
| 地元サンホアキン郡の著名人としてブロマイドになっていた |
【参考】
外国人土地法|Alien Land Act(1920年代)
[西部人物ファイル]

[本名]ジョン・アルバート・トンプソン
[生年・没年]1827年~1876年
[出身]ノルウェー
この人については、この旅をするまでは、全く知らなかった。
国道50号線沿いにプラサービルという町があるが、そのメインストリートの入り口にある建物の壁には、その人、スノーシュー・トンプソンの絵が描かれている、雪山をスキーを履いて郵便を運ぶ姿である。
そして、その向かい側には、ポニーエクスプレスの道標の横に、スノーシュー・トンプソンについての小さなメモリアルとプレートが設置されていた。
今回の旅の主な目的は、ポニー・エクスプレスがたどった道を、ネバダ州のカーソンシティまで、辿ることだったので、偶然、写真を撮ったが、その人の名前も功績も知らなかった。
ポニー・エクスプレスとは、1860年~1861年の間、カリフォルニア州サクラメントとミズーリ州セントジョセフの間を、馬で乗り継いで郵便を運ぶ事業である。電信や鉄道の整備で、その役目はいらなくなったものの、その精神は今なお語り継がれている。
シエラネバダ(山脈)を越えて、ジェノアという町についたときに、スノーシュー・トンプソンが、偉大な人であることを知らされた。
この町は、かつてネバダ州がユタ準州だったころは、モルモン・ステーションと呼ばれた。今もそこには、モルモン・ステーションという州立公園があり、その向かいには博物館もある。
その州立公園の案内人によると、スノーシュー・トンプソンは、雪深い冬のシエラを、ネバダ州ジェノアからカリフォルニア州プラサービルまで、往復5日で、郵便を運んだ人である。誰も担い手のなかった任務を買って出たという。
もともとは、ノルウェー人移民で、故郷の村で覚えのある「スキー板」を自前でつくって、当時は、斬新で、画期的な方法で、雪道を移動したのである。それも、20年間(?)も続けた。ちょうどその期間には、ポニーエクスプレスの時代も含まれるが、さすがのポニー(馬)も、冬のシエラは越せない。
ある時、配達途中の山小屋で、病人を見つけた。その際は、薬を調達するために、ジェノアとサクラメントの間を、わずか1週間で往来したという話も残っている。
この人は、「スキーの父」とも呼ばれているそうである。そのトンプソンが、スキーを履いて、長い棒を手にした銅像が、そのモルモンステーション州立公園の一画にあった。
なお、彼は、この配達の任務に対して、支払いを受けていない。結果的にボランティアになったそうである。
ソノマ郡のサンタローザの町はずれに、パラダイス・リッジ・ワイナリーがある。そこには、かつてこの地でワイナリーを経営していた日系人、長沢鼎(ながさわ・かなえ)さんの資料が展示してある。
その展示の一部には、長沢さんが所有していた日本刀もあるが、2019年の山火事で、焼けた状態での展示であった。
長沢鼎さんは、もともと薩摩藩士で、英国へ留学した後、アメリカにわたって、ここサンタローザのファウンテングローブで、ワイナリーの経営をするに至った人である。
今回は、ナパバレーでソムリエをされている方と、サンフランシスコの日本刀の専門家の方と一緒の訪問であった。焼けた刀身を復元するかどうかの、おそらく最初の会合になったと思う。
ワイナリーのオーナーと面会の後は、直々に敷地内の案内をしてもらった。
すると、なんと、ここには、若松コロニーで栽培されたものとされる茶の木が栽培されていた。育ちは正直言ってあまりよくなかったが、個人的には、歴史的な出会いに感動した。季節外れだとは思うが、白い花がいくつか咲いていた。
「ワカマツ・ティー・ファーム」と名付けられたその一画には、鳥居のようなものが設置されていて、加えて、若松コロニーについての小さな案内板が展示してあった。
ナパのどこかで、若松コロニーの「茶の木」から収穫した茶葉から、茶を販売している人がいることは、聞いていた。それとは違うものの、まさか、ここでその茶の木に出会えるとは思わなかった。
目下、敷地内にティー・ガーデンの建設が予定されていて、その予定地も見せてくれた。
そのあと、訪問者3人で、ピクニックを楽しんだ後、解散。
私は、その後、近くにある「ナガサワ・コミュニティー・パーク」とソノマ郡博物館を訪れた。
せっかくここまで来たので、もう少しいろいろ見たいと思ったが、急に車の調子が悪くなりだしたので、それ以上は、どこも見れなかった。
今では、もう誰も語る人のいなくなった長沢鼎さんであるが、地元の人たちの記憶の中には、確かに残っていると思った。
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| パラダイス・リッジ・ワイナリー遠景 |
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| テースティング・ルーム玄関口にあった案内板 |
ソノマ郡博物館の展示物より